僕は妹が二人いる。 一つ年下の 「陽子」 と7歳離れている 「あゆみ」。 陽子も僕と同様に日本人学校で教育をスタートし、小学校4年生でアメリカンスクールに転校。 外見から性格まで僕と陽子は極端に正反対。 陽子は幼いころからとても活発で、自己主張が強く、他人の目を気にせずに自分らしく生きてきたとてもパワフルな性格の持ち主。 外見もパッと見はアメリカ人、全面的にアメリカ人の父親似。 その反面、僕はどちらかというと控えめ。 周囲を常に意識しながら、慎重に物事を考えて行くタイプで目立つのが昔から苦手。 外見も日本人ぽく、母親の日本人の血が強いと言えるだろう。 今回のコラムは性格が全く逆な僕と陽子が日本人学校とアメリカンスクールにどのように馴染んでいき、どのような悩み事を抱えたのかを比較し、二つの視点から経験談を紹介していこう。
子供のときの悩み
1. 目立つからいじめられる、日本人学校
幼稚園に入学した初日は印象に残る一日だった。 教室に足を踏み入れクラスメートを見渡したその時だった。 一見、みんなが 「同じ」 に見えた。 前髪は眉毛の上で切りそろえられているストレートな黒髪、やや細めの体系、そして、男の子がはいているパンツは太ももの上までのとても短い短パン。 いわゆる、日本独特の体操着のような格好だ。 それまでアメリカン Pre-school に通っていた僕は、小柄やポッチャリな体系、鮮やかな青い目から大きなハシバミ色の目、淡い色の金髪やクリクリっとしたこげ茶色髪をしたクラスメートを見慣れたいたのもあり、唖然としてその光景を眺めていた。 間もなくクラスが始まり、生徒全員の自己紹介が始まった。 みんなが綺麗な日本語で自己紹介していくなか、とうとう僕の出番がやってきた。 当事の僕は毎朝ヘアースプレーとジェルでビシっときめていた完璧な七三わけをしていた。 僕の髪の色はやや明るめのブラウン (今は残念ながらほぼ黒くなってしまったが)。 僕はクラスの前へ恐る恐る歩きながら、みんなの視線を一気に感じた。 「セニサック・ジュンです」 と英語なまりの日本語で自己紹介すると 「え、セサニック?」 「何サック?」 とクラスが一斉にザワザワし始めた。 この日は自分にとって多くの出来事の始まりであった。 日本人だけのクラス、日本語オンリーの授業そして初めてのイジメに遭遇したのもこの日だった。 日本語もまともに喋れず、見た目・格好もみんなと違っていた為、いじめられやすいターゲットとなった。 「外国人」であることでからかわれる日々が続き、毎日泣きながら家に帰っていた。 ある日の放課後、6人組の生徒に囲まれ叩かれた。 当時の担任の先生に 「叩かれたら叩き返しなさい。」 と言われたが、僕は 「暴力は嫌いだから叩かない。」 と先生に言って、結局僕は叩き返すことはしなかった。 なぜ?それは、そのグループの仲間に入れてもらいたい自分がいたからだった。 その日も泣きながら (実は子供の時は大泣き虫!笑) 帰ってくると母親に次のようなことをよく言われていた。
「あなたは他の子と違うのよ」
今だから言えるが、子供の僕にはこの励ましの一言が一番嫌だった。 なぜなら他の子供たちと 「同じ」 でありたかったからだ。 みんなと違うから遊んでもらえない、だったら 「同じ」 になれば仲間にいれてもらえる、単純にそう考えていたに違いない。 なのに、なぜ母親は僕が 「他の子と違う」 ことを主張してくるのか子供の僕には理解できなかった。 しかし、みんなと遊びたいという気持ちが強かったのか、実際いじめも長く続くことなく自然と日本人の生徒と溶け込むようになった。 1年後には普通に日本語で話せるようになり、服装から雰囲気、遊ぶゲーム、毎日見るようになったアニメ番組も全て周りの生徒と 「同じ」 に変わりつつあった。 ある意味、日本人に change していく自分がいた。 そして、日本人として受け入れられたことに嬉しさを感じていた。 皮肉なことに、いじめられた6人組は小学時代の大親友となった。 陽子も入学してすぐいじめられたが、僕より大変な思いをしているはずだ。 外見がもっとアメリカ人だったこともあり、「外人、外人」 とよくからかわれていた。 でも、陽子は物事をはっきりというタイプなので、必ず言い返していた。 ただ、それが原因だったのかどうかは不明だが、学校生活に馴染むのに相当時間がかかった。 友達もなかなかできず、からかわれるどころか無視されるようになった。 陽子もこの悩みを抱えながら、母親に「他のお友達と同じような黒い髪になりたいので髪の毛を黒く染めて!」と毎日のように言いだした。 母親は陽子に 「多くの日本人女性は大人になると髪の毛を陽子のような色に染めるのよ。黒い髪をしている女性の方が少なくなるのよ。」 と言い陽子のような髪の毛の色に憧れて染めていることを雑誌を見せながら説明し、「他の子とは違う」 ということに納得させられていたようだ。 それでも、やっぱり気になっていたみたいで、明るい髪色を隠そうと毎日母親にポニーテールをしてもらい学校に通っていたらしい(笑)その後、多少時間はかかったが、陽子も日本語が喋れるようになり次第に友達も増えていった。
2. 目立つから友達が増える、アメリカンスクール
小学校5年生に現地校に転校が決まった。 この時点で、陽子も僕も自分たちは日本人であると思い込み、二人そろって反発したが結局行かされた。 アメリカンスクールは全く別世界だった。 今まで当たり前だと思っていた 「みんな同じ」 概念が完全に履がえされた。 白人、黒人、メキシカン、アジア系、外見まったく違う子供たちが皆仲良く遊んでいる。 みんなと同じになるために苦労して必死になっていた僕と陽子には言うまでもないがとても CONFUSING! アメリカンスクールでは日本人学校で経験したような 「外見」 でのいじめは特になかったが、シンプルに相手されたなかった。 色々な人種がいるなか、僕たちは珍しくも何にもない。 みんなそれぞれ自分のグループに分かれて遊んでいた。 最初は日本語しか喋れなかったので、自然と現地校にいる日本人の友達と仲良くなった。 ESL のクラスで英語の勉強が始まったが、英語が思うように上達しなかった。 数学以外、成績表は 「D」 と 「F」 が並んでいた2年間が続いた。 そんなある日、バスケットボールを始めないかとアメリカ人の友達に誘われた。 身長は幼いころから高いほうだったが、ポチャリとしてて運動神経は鈍いほうだった。 当時は特にバスケが好きだったわけではなかったが、とりあえず練習に参加した。 バスケは楽しかった! しかも、メンバーは全員アメリカ人。 バスケも上手になりたい、チームメンバーとも話をしたい。 この誘いが僕の人生を大きく変えるきっかけとなった。 それから僕はバスケに夢中になり英語も急に伸び始め、気づいたら自分の周りにはアメリカ人の友達のほうが多くなっていた。 しかし、ここでいうアメリカ人はアジア系アメリカ人。 韓国系、日系の友達に囲まれていた。 みんな英語で会話をするが、考え方・態度・習慣は日本人学校にいたときと似ている部分があった。 僕にとってとても居心地の良い場だった。 その反面、陽子は日本人の友達を作るどころかアメリカン(白人)の友達とすぐ仲良くなった。 陽子もいじめられることもなく、アメリカンの友達にすんなりと受け入れてもらった。
日本人学校とアメリカンスクールには大きな違いがあった。 それは、アメリカンスクールでは目立ち者勝ちであることだ。 みんなそれぞれ個性豊かで、その中でも目立っていた子はいわゆる人気者だ。 アメリカンスクールの子供たちは 「Self Confidence・自信を持つ」 重要さを幼い時期から教育されている。 肯定的な自己を認識し、ポジティブな側面を強調すること。 従って、自慢話や自分を褒めることは自信を持ってすることができる。 日本人学校では 「目立った」 ことでいじめられてきた僕には非常に悩まされる課題であった。 自分で自分を過大評価することは結局目立つことに繋がるからだ。 当時の僕にはできなかった。 どうしても、「目立つ」 = いじめられると無意識に思っていた部分もあり、またどこかで恥ずかしいという気持ちが沸いていた。 だから、中学校に入ったときに、アジア系のアメリカ人の友達と一番相性が合ったと思っている。 このグループにはアメリカで生まれ育っていても、目立ちだからない謙虚な部分があった。
今、過去の自分を振り返ると受け入れてもらうために必死だった自分がいると思う。 日本人としてそしてアメリカ人として。 恥ずかしい話だが、高校生の自分はアメリカ人として認めてもらうため、日本語は一切話さなかった。 アメリカの小学校で最初に友達になってくれた日本人の友達ともほとんど喋らなくなった。 高校でその友達に声をかけられるのも嫌な程だった。 本当に恥ずかしい話だ。 自分のアイデンティティーは一体どっちなのか、無意識に悩まされていたと思う。 小学校のときは 「目立たない」 日本人の僕。 中学校・高校は 「目立つように」 しいたアメリカ人の僕。 そういう面では、妹の陽子が羨ましかった。 子供の頃から自己認識が強く、他人とあわせていたのではなく、そのままの自分でいたからだ。 「あなたは他の子と違うのよ」 この意味がようやく大人になって分かった。 この世の中には 「同じ」 人なんて存在しない。 みんなそれぞれの考えを持ち、それぞれがユニークな個性の持ち主なのだ。 どれだけ、他に憧れをもって 「同じ」 になろうとしても、その人にはなれない。 僕は日本人でもないし、アメリカ人でもない。 両方の中で育ったハーフなのだ。
次回のお話は「教育の違いは先生の質問の仕方にある」
アメリカン幼稚園に通った人だったら誰でも覚えている、ある「活動」が鍵を握る。
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